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僕の相棒

平成7年度入学 中学校教員養成課程数学専攻 227番 三戸 学
 

 

(1)自分の障害をどのように受け止めてきたのか。 

 

 僕は出産のとき、子宮内で胎児の頭部が子宮底に位していたため、酸欠欠乏となり、逆児のため仮死状態で生まれてきました。あるとき、産婦人科の先生から「もしかしたら、脳に何らかの障害が出るかもしれない」と母に告げられたそうです。そのとき、母はひどくショックを受けたと言っていました。 

 

 僕は脳性マヒという障害を持って、この世に生まれてきました。小学校、中学校、高等学校と普通学校で生活して、苦しかったことや悔しかったことがたくさんありました。けど、今振り返ってみると、みんな良い思い出です。ただ、一つだけ残念なことは良き理解者がもう少しいてくれたら、悩まなくても良いのにと思う場面がたくさんありました。 

 

 僕は小さなころから、体を動かすことが好きです。これを聞いて、みなさんはびっくりするかもしれませんが、僕は幼少のころ、友達とほとんど毎日のように外で野球、鬼ごっこ、ドッチボールなどをして遊びました。日が暮れて、心配になって、母が迎えに来るほどです。小さいころから、僕はみんなと一緒にやってきました。しかし、そういう僕を学年が上がるにつれて、友達は拒否をするようになってきました。僕はこの友達の態度の急変に悩まされました。例えば、町に遊びに行くときです。オマエと一緒に行くと遅くなるからとか、周りの視線が気になるから君と一緒に行動したくないと言われました。体育もそうです。オマエがいると負けるから、一緒にやりたくないとはっきり言われたり、下手に動かれると困るから黙って突っ立っているだけで良いと言って、なかなか仲間に入れてもらえませんでした。とにかく、自分のできる範囲で一生懸命がんばろうとする僕の思いをなかなか理解してくれませんでした。逆に、そういう僕の姿をうとましく思われてきました。また、学校の先生も僕を偏見視される一つの要因を作ったと思います。例えば、国語の授業で音読をします。これは言葉が不自由なので、大変でしょうと言って、免除されました。数学の時間のときもそうです。当てられた問題の解答を黒板に書くとき、書くのに時間がかかり過ぎるといって、僕だけ特別に字数の少なくてすむ問題を解かせられました。このように、僕は先生からの逆差別を受けてきました。きっと、先生のこの態度が腫れ物には触るなという意識を育てていったのだと思います。 

 

 僕は県内で有数の進学校に進みました。中学ではまだ、「運動会は無理だから、見学したほうが良いのではないか」という先生に対して、「いや、ガクちゃんもクラスの一員なんだから」と言ってくれる友達は何人かいましたが、高校では誰もいませんでした。本当はみんなと一緒にやりたいのに、と思ったときが何回あったか分かりません。僕は今まで、自分の障害に物凄いコンプレックスを感じてきました。しかし、その反面、心のどこかでそういうコンプレックスを払拭したいと思い、挫けないでがんばってきたことも事実です。何度となく、身体に障害がなく生まれてきたかったと思い、その度に悩み、苦しみました。でも、いつかは僕の生き方を理解してくれると信じ、同級生に自分を理解してもらう努力は惜しまずに続けました。 

 

(2)自分の心の支えになったものは。 

 

 障害を持って、普通学校で生活していくことは並大抵の苦労ではありません。毎日、学校に通って、障害を持っているがゆえの不平不満がありました。例えば、積極的にいっても友達にうまく受け止めてもらえなかったり、本当は自分も運動会や球技大会に参加したいのに、みんなの気持ちを考えて、自分を抑えたりしたことです。また、僕の歩き格好や言葉を真似して、同級生の受けを狙ったりする人もいました。僕はその不平不満を家の中で、当たり散らしました。ときには、当たり散らす気力もなくなり、部屋で一人悔し涙に溺れていたときもありました。そういう僕の気持ちを家族が一番理解してくれました。僕は幾度も「なんで僕は身体に障害を持って生まれてきたんだ」と母に聞きました。その度に母は「神様があなたなら障害を克服していけると思ったから、障害という重荷をあなたに背負わせたんだよ」と言って励ましてくれました。僕は母が言った言葉を信じて、がんばってきました。 

 

 高校時代、僕は文芸部に所属していました。初めは何気なく入った部活ですが、今思うと、この文芸部も自分の心の支えになっていたように思います。文芸部の主な活動は文化祭のときに一冊の部誌を発行することです。僕は部誌を通して、自分の障害に対する素直な気持ちを表現してきました。多くの友達が僕の詩や小説を読んで感想を言ってくれました。僕は「書く」ことによって、自分をアピールすることができると知りました。悩みや苦しみを紙面を通して、訴えたいと思うようになってきました。すると、なんだか急に自分が楽になってきました。自分の障害を前向きに考えるようになりました。 

 

 小学校1年生のとき、担任の先生に「君を理解してもらうために、ぜひ運動会はがんばって走って欲しい」と言われました。それ以来、僕は運動会やマラソン大会や強歩大会に毎回参加してきました。僕は全て大会を完走や完歩することによって、「やれば、できるんだなぁ」という自信を持つことができました。 

 

(3)今の心境と今後の目標 

 

 高校に入学して、だんだんと自分の障害を見つめるようになるにつれて、僕は自分の障害を生かしたいと思うようになってきました。みんなにできて自分にできないものはたくさんありますが、逆に、自分にしかできないものもきっと何かあるはずだと思いました。そこで、僕は教師になろうと決心しました。教師だったら、自分を生かせると思ったからです。僕は数学専攻の学生ですが、数学の公式よりももっと大切なものがあると思います。僕はそれを生徒に伝えていきたい。肢体障害者が普通の学校の教師になることは難しいことだと分かっています。でも、こんな僕だからこそ、生徒に伝えてあげられるものがあるような気がします。自分の生きる姿を通して、生きていくことの尊さや生きることのすばらしさを学んで欲しい。これが僕の目標でもあり、夢です。 

 

 しかし、今、そういう自分の思いは揺らいでいます。僕は一回、生徒に勉強を教えてみたいという理由から、家庭教師をやってみようと思いました。しかし、障害があるからといって断られました。また、実家の秋田県では肢体障害者で普通学校に勤めている人は誰もいません。これは僕にとって厳しい現実です。そして、ある人に「万が一、非常事態が起こったとき、君は生徒を守ることはできますか」と言われました。これは、僕にとってかなりきつい一言でした。 

 

 今、僕はこの壁を乗り越えようとがんばっています。障害があるからと言って、家庭教師は無理なんて言わせない、教師も無理なんて言わせない、と社会に訴えていきたいと考えています。結局、自分の障害は相対的なものだと思います。自分が前向きに生きようとすれば、障害は自分の大きな魅力の一つになります。僕は自分が障害を持って生まれてきたことが悔しいことではなく、社会から障害を再認識させられることが一番悔しいのです。今まで、僕は自分の障害ばかりを見つめてきました。だから、障害が自分にとって、もの凄い大きな壁のように見えてきました。しかし、障害があるということを認めて、障害のある自分の良いところを見つめていくと、障害は自分の個性的な魅力以外の何物でもないことに気付きました。 

 

 今、僕は福祉の勉強をしています。主に、障害者福祉についてです。自分の置かれている立場を知りたいと思い、勉強を始めました。将来、どんな職業につくか分かりませんが、福祉について少しでも社会にものを言っていける人間になりたいなぁと思っています。また、自分のこれまでを振り返ってみて、僕の周りに障害を持ってがんばっている人がいませんでした。もし、周りに障害を持ってがんばっている人がいたら、僕自身そんなに悩まなくても良かったのではないかと思います。だから、障害を持っていて、一生懸命にがんばろうとしている子どもに僕は生きる勇気と希望を与えていきたいと思っています。 

 

 僕の相棒はときには苦しめ、ときには勇気付ける、どうしようもない奴です。これから先、僕はこの厄介な相棒と気軽に付き合っていこうと思っています。 

 

 最後に、僕にこのような機会を与えてくださった松崎先生、最後まで僕の話を聞いてくださった皆さん、本当にありがとうございました。 

 

(1997年5月13日月曜日 【青年心理学】の講義で発表)



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