>> 前のページへ戻る


生徒たちと…

 秋田市立豊岩中学校での半年間の教師生活は、いつも生徒たちのサポートに支えられていました。 

 

 僕は通勤に市営バスを利用しました。幸い、通学にバスを利用する生徒もいて、乗車はサラリーマンのおっちゃんに、下車は生徒たちにサポートをしてもらいました。 

 

 最近、さかんにバリアフリーと言われていますが、その観点で捉えるならば、学校はとてもバリアがあるところだと思います。学校の正面玄関に段差があり、生徒たちから肩を貸してもらって、学校の中に入っていました。 

 

 授業をするとき、3年生の教室は1階なので、問題はありませんでしたが、2年生、1年生の教室は2階なので、生徒たちのサポートが必要でした。 

 

 「先生、行こう」と言って、1年生、2年生の数学係は授業が始まる前に、僕を迎えに来ました。数学係は2人。1人は僕の教科書、授業で使用するプリントを持ち、もう1人は僕のサポートをして、教室に向いました。 

 

 「ヨロシク」と言って、僕は生徒たちにサポートをしてもらいました。障害者のサポートをした経験がないのでしょうか。初めはとてもぎこちなく、生徒たちは慣れていないので、「もっと、ゆっくり」「僕のここを抱えて」とちょくちょく、僕の指導がはいりました。 

 

 男子生徒なら、気兼ねすることなく、サポートを頼むことができました。しかし、女子生徒からサポートをしてもらうときは最近、良く言われている 

 

<セクハラ>と間違えられてはまずいと思い、とても緊張しました。<障害者の講師、サポートと称して、女子生徒にセクハラ>とマスコミに叩かれたりしたら、大変なことです。でも、生徒たちの気持ちを一番大切に尊重したいと思っていたので、「やりたい」と言われたら、断ることができませんでした。女子生徒からサポートをしてもらうとき、ものすごく気を使っていました。 

 

『僕のサポートを通して、生徒1人ひとり、何かを感じて欲しい…』
 

 

 この気持ちを一番大切にして、生徒たちと接していました。だから、生徒たちとの出会いや生徒たちのサポートがとても新鮮でした。生徒たちに早く僕を知ってもらいたい、慣れてもらいたいと思っていました。 

 

 生徒たちは僕のサポートを楽しんでいる様子でした。いろんな意味で、疲れている中学生にとって、僕のサポートはたぶん、ホッとするのだろうと思います。僕は相手が生徒であろうと、サポートをしてもらったことに対して「ありがとう」と頭を下げました。それが人に対する礼儀と思っているので、深く考えていませんでした。 

 

 だけど、生徒たちの立場で考えると、先生から「ありがとう」と言われて、頭を下げられることは嬉しいことだと思います。自分だったら…と考えると、やはり嬉しいです。「ありがとう」と言って、喜んでいる生徒たちの表情を見ていると、あまり誉められたことがないのだろうなと感じました。 

 

 世間では<荒れる中学生>と言われているけど、僕が接した限りでは決してそんなことはないと思います。今の中学生はなかなかのものです。僕の障害をしっかりと受け入れてくれました。何もかも分かっているような気がしました。生徒たちよりも、同僚の先生たちの方が戸惑っていました。僕は逆に大きな希望と期待を抱きます。性教育の実践で「教える先生の方が戸惑っていて、生徒たちの方は『先生にそんなこと言われなくても、とっくに知っているよ』という感じだった」と言われるように、僕も同じようなことを感じました。 

 

 半年間の任期を終えるころには、生徒たちは僕のサポートがとても上手になっていました。アウンの呼吸というか…生徒たちのまなざしが少し優しくなったように見えました。 

 

 1人ひとりの人間はかけがえのない存在であり、お互いに持ちつ持たれつの関係であります。だから、生徒たちにサポートをしてもらうとき、僕も生徒たちに何かを与えていると思っていました。<1人ひとり、違って、当たり前>というすばらしさを生徒たちは感じとってくれたのかなぁ…10年後、20年後が楽しみです。生徒たちの純な気持ちに接して、秋田市内を歩くと、まだまだ障害者にとって、住みやすい社会でないことを実感じます。<生きることは学ぶこと 学ぶことは生きること>と良く言われますが、人間は年齢を重ねるにつれて、何を学ぶのだろうと考えさせられます。 

 

 生徒たちから頂いた色紙を下記のホームページにアップしています。僕の宝物です。良かったら、見て下さい。教え子はとてもかわいいです。 

 

障害者労働センター連絡会 DWC 通信 KSKP 8月号
 



[前のページ] [「思い」] [次のページ]