■コーヒーブレイク
月刊誌「みんなのねがい」(NO.384〜NO.387)
1999年12月号(NO.384)
大学一年の九月の終わり頃。大学生活にも慣れてきて、ぼちぼちアルバイトを始める友だちが増えてきました。そういったフインキに流されるように、僕も何かやってみようと考えました。そこで思いついたのは家庭教師。友だちの中に、家庭教師をやっている人もいて、話を聞くたびに家庭教師への憧れがどんどんと膨れていきました。僕の教える子どもはどんな子?成績の良い子、それともあまり芳しくない子?男の子・女の子?小学生、中学生、高校生…考えるだけで楽しくなりました。簡単に斡旋されている友だちをみて、すぐに斡旋されるだろうと思っていました。
近くの家庭教師斡旋所に行き、応接してくれた人は四〇歳くらいの貫禄のある男性。
「いろいろ問題がありますね。一つはことばの問題。あなたの言っていることば、子どもは聞き取れますか。あなたは障害をもっていますよね」
「ハイ、脳性マヒです」
「そっか。こちらの信用問題があって、君のような人間を斡旋して、信用を損ねたら、どうするのですか」
結局、履歴書も受け取ってもらえないまま帰されました。意外な結末。まぁ、ここでダメでも…と思い、市内四つの斡旋所に行きました。どこも同じ結果。さすがの僕も大きなショック。この気持ちを友だちに話して、今度は友だちと一緒に行きました。ようやく履歴書を受け取ってもらったけれど、同じような条件で、僕よりも遅く登録した友だちが斡旋されている現状。やはり、無理なのかなぁと思い、何度も諦めかけたけど、どうしても諦め切れませんでした。
大学二年の五月頃、思いきって友だちに呼びかけ、放課後、学生会館の一室を借りて、僕の気持ちを聞いてもらいました。十四人が集まりました。このとき「みんなの前で自分の考えを言えて良かった」「ガクちゃん(僕のあだ名)の力になりたい」と言う友だちにとても勇気づけられました。
この日から、週一回のペースで話し合いが続きました。「家庭教師を求めている親というのは、成績を上げることを求めているので、ものの考え方を求めていない。障害を持っている人にも教えることができると分かることと、実際に雇うことは別」と友だち。お互い、思っていることを素直に話し合いました。四回目の話し合いで、まずはビラを作って配ってみることにしました。
「お願いします」と、一言ひとこと、ていねいに
「家庭教師やります」と書いたビラを街頭で配り、近くのスーパーマーケットや郵便局、市役所、社会福祉協議会にも掲示してもらいました。子どもに勉強を教えたい、生身の子どもと接することでいろいろと勉強したい、この気持ちを「時給:無料でやります」と書いて、蛍光ペンでひときわ目立たせました。このビラ配りを、週一回のペースで、三回やりました。街頭での反応は、「うちは子どもがいないけど」「子どもが大きくなってしまって」「がんばってください」と、思っていた以上の感触。しかし、かかってくるのはいたずら電話ばかりで、なかなかホンモノの電話はかかってきませんでした。
「○○という喫茶店で会ってくれませんか。家庭教師のことでお聞きしたいことがあるのですけど…」すっかり落ち込んでいたところに吉報の電話。友だちと一緒に喫茶店に行って、親子三人と面接。「ビラを見て、どんなお人なのか、知りたくて…一緒に話してみると、とてもユニークなお人で、なんかホッとしました。良かったら、今度の水曜日、家に来て、ウチの子どもに勉強を教えてくれませんか」。
帰り際の友だちのことば。「良かったネ、ガクちゃん」
(秋田市 さんのへ まなぶ)
2000年1月号(NO.385)
「家庭教師します」のビラを見てかけてくる電話を先着順に受けつけたら、なんと「申し訳ありません」と断らなくてはならない事態になりました。予想もしなかった展開。
大学二年の七月から大学を卒業するまで、かれこれ三年間、家庭教師として子どもたちに勉強を教えてきました。三年間で教えた子どもは全部で九人、小学校低学年から高校生まで、かなり幅広い年齢層です。それぞれの子どもにそれぞれの思い出があります。
初めての教え子 えりなちゃん
何よりも嬉しいことは途中で断られたことがなかったということです。初めて子どもに接したとき、メチャメチャ嬉しくて、卒業するまで続けていきたいなぁと思っていたので、最後まで家庭教師をやり遂げることができて、とても充実感と達成感があります。
「子どもに勉強を教えることで、僕自身もいろいろと勉強になるのでお金はいらないよ」と、無料でやっていた家庭教師。子どもに勉強を教えることに、楽しさを感じていたので、とてもお金を取る気持ちにはなれませんでした。でも、僕の熱心な家庭教師ぶりのせいか、そういう僕の気持ちをもう一度伝えたうえで、「だけど、これは私たちの気持ち」と、それでも払いたいと言うので、気持ちよくもらうことにしました。
どの家庭も僕と子どものやりとりを見て、あらためて家庭教師をお願いしたいと言ってくれました。「うちの子どもに、このような面があるとは思わなかったわ…」とお母さんは自分の子どもを見直したようでした。
両親は子どものことを詳細に話します。もちろん、内容は勉強のこと。「得意な教科は…、苦手な教科は…」。
話が一段落したあと、子どもの勉強部屋に入ります。僕の教え方はかなり変わっています。「字を書くことが大変だから、僕の変わりに書いてくれる?」「いいよ。先生」。子どもの視線はノ―トを見て、耳は僕にそば立てて僕のことばを聞きます。このような教え方にはじめはお互い戸惑っていましたが、慣れてくると気にならなくなりました。
約一時間半の勉強時間。しっかりと勉強するときもあったけど、勉強が半分、極端な場合、勉強をまったくしない日もありました。しっかりとお金を貰っているので、どうかなぁと思っていたけど、それでクビにするのなら、それでもいいと考えていました。僕を通して、いろいろな疲れを癒し、元気が出てくるのならとそれはそれでよい、これもとても大切なことなのだと思って、子どもと接していました。最近、よく言われているメンタルフレンドをやっているのかなぁと思ったこともありました。
「夕ごはん、いっしょに食べない?」とごちそうしてくれる家庭や、夕食の残り物のおすそわけをしてくれるところもあり、一人暮しの僕にとって、栄養満点な家庭料理を食べることができたのは、とても助かりました。日頃の食生活を考えたら、本当に幸せな気分でした。
歩いて通うことができない遠い所は親ごさんが送迎してくれました。子どものお父さんと何回か飲みに行って、教育について語り合ったたことがあります。「ストローで酒を飲む人は、酒が強い証拠だ」とムチャクチャなことを言われて「今度、また飲みに行こう」と誘われる始末で、これには子どももあきれ果てたようすでした。僕はなんでもありの家庭教師。完全に開き直っていました。
世間一般的な家庭教師という枠にはまらず、子どもと関われたことは僕の大きな財産です。僕を家庭教師として雇った家族(親)の一般的な傾向として、子どもの学力向上よりも人間的な成長を願っていました。だからこそ、解雇されずにすんだのでしょう。
(秋田市 さんのへ まなぶ)
2000年2月号(NO.386)
教育実習は僕の大学生活のメイン・イベント。二年次の実習で、生まれて初めての授業を
山形大学教育学部付属中学校でしました。実習が始まる前から、生徒たちと関わることを楽しみにしていました。
実習の初日の放課後、教科ごとの打ち合わせがあり、授業をする日とその内容「三角形の合同条件」が決まりました。身の引き締まる思いでした。さっそく次の日から、教材研究が始まりました。楽しみにしていたけど、指導教官の授業を参観しながら、目の前に授業が迫ってきたら、とても不安な気持ちになりました。いちばん悩んだことは板書。僕は板書が困難なので、どのように授業を進めていったらよいか…まったく板書をしない授業…僕自身、そんな授業を受けたことがなかったので具体的なイメージが沸いてきませんでした。そんな授業が可能なのかなぁと悩みは深まるばかり。でも、大切なことは生徒たちに授業内容をしっかりと教えることではないかと開き直り、板書が困難というハンディをどのように補っていこうかと考えました。
授業する前日の放課後。指導教官に相談しました。「明日の授業のことですけど……板書が大変なので、事前に友だちに書いてもらった画用紙を黒板に貼っていく授業をしたいと思います。あと、長い間、立っていることが大変なので椅子に座って、授業をしても良いですか」。
先生は腕組みをして聞いていました。「明日の二年一組の授業者は三戸君なのだから、三戸君にすべてをお任せします。椅子は教卓にあるので、それを使ってください」。
方法は決まったものの、肝心な授業をどのように展開したらよいか考えあぐねていました。その姿をみかねた指導教官は「私が授業をするのなら、黒板には三角形しか書かないよ。だから、三戸君は三角形を書いた紙を黒板に貼るとよいのではないの」とアドバイスをくれました。
初めての授業の日。目覚めは最高。授業は一時間目。五分前に迎えに来た数学係に磁石と教科書と指示棒と学習プリントを持ってもらい、ゆっくりと教室に向かいました。不安や緊張よりも、授業をできる喜びで満ちていました。始業のベルとともに教室に入ると、数学科の友だちが教卓を脇に寄せてくれました。生徒たちはこれから何が起こるのだろうという表情。生徒たちのこの表情を見たとき、不思議と肩の力が抜けていきました。
号令をして、授業が始まりました。初めに学習するタイトル「三角形の合同条件」を黒板の左上の隅に貼り、生徒に学習プリントを配ってもらいました。【次の三角形と合同になるためには、もう一つの三角形のどの辺とどの角が最低限等しくなればよいか】という発問から、学習プリントに書いてある三角形の辺と角に印を付けていく学習課題。授業のメインは生徒たちがどの辺とどの角が等しくなれば合同になるのかを発表して、それをまとめて「三角形の合同条件」を導き出すところ。「黒板に字を書くことがしんどいので、僕の変わりに書いてください」と頼むと、一瞬生徒たちは戸惑いを見せたけど、指名すると、快く板書してくれました。
無我夢中で、あっという間に時間が過ぎましたが、授業をしっかりとまとめることができて、安心しました。最後に、授業に対するこれまでの心の葛藤を話したら、生徒たちから胸がいっぱいになる拍手を受けました。号令をかけて、授業を終えたとき、自分自身を誇らしく思えました。
授業は生徒たちと共同作業をやっている、みんなでつくっている――のノリで、これが僕の授業なのだと手ごたえのようなものを感じました。
2000年3月号(NO.387)
みなさん、「GTO」って、ご存知ですか?「GREAT TEACHER ONIZUKA」と呼ばれる一人の教師、鬼塚英吉が繰り広げる学園モノで、一昨年フジテレビで放送されました。高視聴率を得て、スペシャル版の放送、『週刊少年マガジン』に連載中の原作コミックのアニメ化、そして、今年のお正月映画になるなど、ものすごい人気です。
TVで放送していたとき、反町隆史演じる主人公、鬼塚英吉に、胸がスカッと晴れるようなおもしろさを感じ、毎回欠かさず見ていました。破天荒でメチャクチャな行動をしますが、生徒たちに真正面からぶつかっていく姿にとても共感しました。そして、何よりも僕の気を惹いたのは「GREAT」ということばの響きでした。
考えてみれば、僕も数々の「GREAT」なことをしてきたなぁと思う、と言うより、反省しています。僕は子どもが好きです。なぜ?と聞かれても困るけど、理屈ではありません。僕は自分を隠さず、真正面から子どもにぶつかっていきます。一見、乱暴なやり方なように見えても、子どもは心を開いてくれます。自分を隠したり、かっこつけたりすると、子どもは心を閉ざしていきます。これほど、寂しいことはないです。子どもは僕に真正面からぶつかってきます。それに真正面から向き合う、ぶつかっていく…知らず知らずに信頼関係ができていきます。
今まで関わった子どもたちに、自分の障害を語ったことは一度もありません。正確に言えば、その必要がないのです。障害を語ることは、逆に子どもたちへ失礼なのではないかとさえ思えてくるのです。「心の教育」ということばが世間ではびこっているせいか、「心の教育をしている」と言ってくる人もいますが、とても違和感を感じます。間違っても、僕は心を教育できるような人間ではありません。そもそも、心なんて教育されるものではない、感じとるものだと子どもたちから教えられています。
昨年の十月から、秋田のラーニングサポート事業にかかわる非常勤講師として、市内の中学校に勤務することになりました。一学年一クラスの小規模校です。三学年の数学の授業を担当しています。授業はT−T方式。生徒たちとのかかわりが一番楽しいです。一年生と二年生の教室が二階で「先生、行こう」と数学係が迎えに来て、肩を借りて、階段を一段ずつのぼっていきます。授業も生徒たちにサポートしてもらっています。生徒たちの選球眼には恐れいります。障害のある僕をそのまま受け入れて、そして、求めてきます。だから、妥協を許してくれません。数学の授業が分かりやすいのか、おもしろいのか、生徒の気持ちを分かってくれるのか…と突きつけてきて、いつも四苦八苦しています。毎日が新鮮で、生徒たちのまなざしの確かさに学ぶべきところがたくさんあります。
雑誌や新聞で「荒れる○○」といった表現で、教育問題が語られていますが、未来に絶望を感じさせ、希望もないような記述が多いように思います。読んでいて、気持ちが萎えてきます。僕は未来に大きな希望を持っています。だからこそ、子どもたちに伝えたいことが山のようにあります。未来を担う子どもたちに少しでも不正や腐敗、差別や偏見に研ぎ澄まされた人権感覚で向ってほしい…この気持ちが日に日に強くなり、僕を突き動かします。僕に出来ることは真正面からぶつかっていくことです。そして、何かを感じ取ってほしい。僕は子どもたちを信じています。子どもたちの豊かさな感性に期待しています。
まだまだ道半ばですが、いつの日か「GTS」=「GREAT TEACHER SANNOHE」と呼ばれたいです。
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